乃木神社乃木希典陸軍大将を祀る神社・その生き方に多くの人が感銘を

明治天皇 伏見桃山陵の麓にあります。明治天皇のゆかりのある神社です。
乃木神社は、大正時代に創建された神社で、明治時代の軍人の乃木希典(のぎまれすけ)、乃木靜子(のぎしずこ)を祭神として祀っています。

目次

乃木神社の由緒

御祭神
乃木希典命(のぎまれゆきのみこと)
乃木靜子命(のぎしずこのみこと)
乃木希典陸軍大将は日露戦争で功績をあげた軍人ですが、祀られているのは軍人の実績があるからではありません。
勤勉で、人望があり、その人柄に多くの人に慕われ、その生き方に多くの人が感銘をうけたことが神社に祀られる理由となっています。
文武にわたる御功績、その賢婦人であられた乃木静子命を鎮め祀る理由です。
また、日露戦争での功績から、勝負運の語利益があるともされています。

明治天皇が亡くなった後を慕って殉死したことで国際的にも著名でです。

(明治天皇大葬が行われた日の午後8時頃、妻・静子とともに自刃して亡くなられました。)

階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれることも多く、「乃木神社」や「乃木坂」に名前を残しています。

乃木希典

日本が世界の歴史に一石を投じた日露戦争。日本国民が血と涙を流した民族の存亡をわけたこの戦いの主役が、明治天皇、東郷平八郎そして乃木希典である。

乃木希典 どんな人だったのか

生立ち

乃木希典、幼名「無人」江戸時代末期の嘉永2年(1849年)11月11日に長府藩に三男として生まれる。生まれつき体があまり丈夫ではなく、泣き虫な少年であった。(妹にいじめられて泣くこともしばしばあった。)上の兄2人がすでに若くして亡くなっていたため、強く健康に成長してほしいという願いが込めて「無人(なきと)」という名前をつけられる。
また、幼少期の話で妹のキネが風邪で寝ている時、枕元にそっとお土産を買ってくるような優しい少年でもあった。

少年期

15歳で元服し、学者となることを志して学問へのめりこむ「源三」(元服した時の名)、しかし、武士になって欲しいと願う父とは対立をして、家を飛び出し長府(下関市)から70km以上離れた萩(萩市)まで徒歩で赴き、吉田松陰の叔父にあたる松下村塾の創始者・玉木文之進(玉木家は乃木家から別れた家柄)弟子入りを試みた。しかし、玉木文之進は父の許しを得ずに訪れたことを責め、長府から萩まで70km以上の道のりを歩いてきた「源三」を追い返そうとします。この時、玉木文之進の妻辰子が引き止めてくれ何とか玉木家でお世話になることが出来るようになる。だが、玉木文之進は武士にならないのであれば農民になれと述べて、源三の弟子入りを拒絶する。
はじめは玉木文之進から学問の教えを受けることは出来ず、昼は農作業で汗を流し、夜は辰子夫人に教えを受けるという日々が続きましたが根が真面目な性格だった「源三」は1年が過ぎる頃には、ひ弱だった身体がたくましく成長し、玉木文之進も少しずつ学問を教えてくれるようになっていくのであった。

「源三」は名を「文蔵」と改め、学問だけではなく武芸にも優れた青年として成長していきます。18歳の時に第二次長州征伐で長府藩報国隊として初陣を果たし、左足を負傷しつつも、見事幕府軍を打ち破ります。
明治維新を迎えた明治4年、文蔵は23歳の若さで明治政府の陸軍少佐となり、名前も「希典」と改めて青年将校として歩み始めまます。

西南戦争ー軍旗喪失事件

西南戦争にて連隊を率いていた乃木は、熊本県植木の戦いにおいて混乱の中で明治天皇から賜った軍旗を敵兵に奪われてしまう。
乃木はこの軍旗喪失を軍人としてこの上なく恥じ、処罰を求めましたが不問に処されます。しかし、自らを許せなかった乃木は自害を図ったり、重傷なのにもかかわらず野戦病院から抜け出して戦地に赴くなど、自らを罰するように戦いに向かってきます。

そして日露戦争へ

「旅順要塞攻略、奉天会戦、日本海海戦、日露戦争の行方を決定づけた戦いにおいてそのすべてに関わり、奇跡的な勝利に至る鍵を握った男もいうべき人物が満洲軍第三軍司令官・乃木希典であった。数々の不利な条件を撥ねのけたそれらの戦いはもはや『奇跡』といっても戦果であった。

旅順要塞攻略では「いかなる敵を引き受けても三年は支えることができる」と自負していた難攻不落の鉄壁の堅城(ロシアの永久要塞)を、五カ月で落とした乃木とその部下将兵の戦いは、クロパトキン(ロシア満州軍総司令官)にとり想像を絶する人間の力を超えた鬼神(キリスト教に言えば悪魔)の為せる業であった。いわしめたのである。

爾霊山占拠後の光景(明治37年12月6撮影)

旅順次囲戦の最大の激戦となった。

人間ならぬ鬼神の如く乃木及び第三軍が最後の奉天会戦(明治三十八年二―三月、これまでの世界陸戦上最大の会戦)において、数倍のロシア軍を相手に各軍中最大の犠牲を払いつつ攻めに攻め続けたことが、日本軍の逆転勝利をもたらしたのである。

旅順要塞戦が日露両国の命運を決した天王山、真の決勝戦であり、最後の会戦・奉天会戦の勝利は乃木軍の一大奮戦なくして成し遂げれなかったと思われる。
東郷平八郎が世界一の海将として仰がれるのであれば、同様に乃木希典もまた世界一の陸将として称えられるべきである。

二〇三高地占拠後の乃木大将と東郷連合艦隊司令長官

明治37年12月20日、栁樹房の第三司令部にて撮影

第三軍旅順入城
明治38年1月2日、旅順は落城、同年1月13日旅順へ入場する第三軍
写真の中央、隊の先頭を進むのが第三軍司令官乃木大将である。

乃木更迭案

旅順要塞攻略は早期に陥落すると楽観視していた陸軍内部においては多く兵士を亡くし、乃木に対する非難が高まり、一時は乃木を第3軍司令官から更迭する案も浮上した。しかし、明治天皇が御前会議において乃木更迭に否定的な見解を示したことから、乃木の続投が決まったといわれている。

また、南山の戦いで長男 勝典を戦死で亡くし、旅順要塞戦にて、次男・保典を戦死で亡くている。

涙の凱旋

明治三十九年一月十四日、乃木は第三軍幕僚とともに新橋駅に着いた。凱旋した乃木に対する歓迎は大山巖満洲軍総司令官、東郷平八郎連合艦隊司令長官の時を上回るもので、駅から宮城までの道は人々で満ちあふれた。父老に合わす顔がないと己れを責める乃木を市民はあたかもわが老父のごとく出迎え、乃木が駅頭に姿を表すと、集まった群衆は涙とともに声の限り「乃木大将万歳」を絶叫した。

しかし、乃木は勝利したといえど、満州軍各軍最大の死傷者を出したことを遺憾として、出来る事ならば二人の息子とともに戦死したかった、戦死した将兵の親たちに合わせる顔がないとして生きて還ることを心から恥じたのである。そこには日露戦争の奇跡的勝利をもたらした比類なき軍功功績に対する誇りは微塵もなかった。

日露戦争 復命を明治天皇

明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読

復命書を読み上げるうち、涙声となった。さらに乃木は、明治天皇に対し、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上した。しかし明治天皇は、乃木の苦しい心境は理解した今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕(天皇)が世を去った後にせよ、という趣旨のことを述べられる。

乃木は涙とともにお言葉を受け留めた。乃木こそ東郷平八郎と共に日露戦争最高の殊勲者であるにもかかわらず、その大功をおいて、自らの指揮下で多くの将兵が戦死したことをはじ、自分を責めて、割腹して天皇と将兵の親たちに詫びたかったのである。

明治天皇の大喪の礼が行われた日、乃木希典・静子 自決して亡くなる

大正元年(1912年)9月13日、明治天皇の大喪の礼が行われたに自決して亡くなる

明治天皇大葬が挙行された。遺体を運ぶ霊轜(れいじ)が宮城を出発する合図の号砲が打たれた午後八時すぎ、乃木は自邸で後を追うべく切腹、自決した。数え六十四(満六十二)歳であった。
妻静子も乃木と対座し、乃木の自刃とほぼ同時に懐剣で心臓を貫いた。

乃木は当初、ひとりで自刃するつもりだったが、二子を失っている静子は、私だけ残さないでほしい、一緒に死なせてほしいと懇請したのではないかいわれている。

割腹の許しを請うた時に明治天皇が答えた「朕世を去りたる後にせよ」の言いつけを守ったのである。

乃木は機会あるごとに戦死者の墓に冥福を祈り、遺族を慰めつつ、常にこう述べたと伝えられている。

「あなた方の子弟はこの乃木が殺したようなものである。腹を切って言い訳をせねばならぬのであるが今は時機でない。やがて乃木の一命を君国に捧げる時があろう。その時はあなた方に対して乃木が大罪を謝する時である」

遺言状

乃木希典の逸話

東京の巣鴨にある廃兵院に最も足繁く通う乃木であった。ここには日露戦争で負傷し不具となった兵士約五十人が暮らした。そのうち十五人が旅順戦の部下だったから、乃木は深い同情と責任を感じていた。毎月一、二度訪れ、各部屋を一人一人慰問して回り、菓子や果物などの手土産を絶やさなかった。

廃兵たちは、来院を何より喜んでいた。乃木が殉死を遂げた時、彼らは慈父を失ったかのように泣き悲しんだ。葬儀への会葬も強く希望した。そこで廃兵は歩ける者は葬列に加わり、不自由ながら外出可能な者は葬列より先に式場に着いた。葬儀後、一般の国民とともに墓参りする廃兵が後を絶たなかった。

戦後のある年、乃木は長野へ出かけた。私用だったので静かに行き帰りするつもりだったが、そうはいかず「乃木大将がやって来た」とあちこちで声が上がり、長野師範学校に招かれた。学校では絶好の機会として全生徒を講堂に集めた。校長は乃木を紹介、その勲功を称えた後、講演を乞い登壇を促した。ところがいかに進められても乃木は演壇に上がろうとはせず講演を辞退した。だが校長はあきらめず「少しでも」と懇願したのは無理もない。やむなく乃木はその場で立ち上がると「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」とだけ言って頭を垂れ、そのまま涙を流し始め、ついにハンカチで拭いながら嗚咽した。これを見た満堂の生徒と教師もみな泣いた。

長野県出身の兵士はみな第三軍に属し、旅順と奉天で数多く戦死している。生徒たちは彼らの弟である者が少なくなかった。その尊い英霊たちの弟に向い、乃木は高い演壇に立って言うべき何ものもなかったのである。

この「たった一言の講演」はその後この地で、長く言い伝えられた。

乃木将軍と孝行辻占売り

靖國神社近くの街角で夜ごと辻占(日本で行われた占いの一種)売りする10歳か11歳くらいのみすぼらしい少年がいた。少年の父は日露戦争の時松樹山で戦死、母はリウマチにかかって足腰も立たないとい生活で、少年は朝は新聞配達、昼は小学校、夕方から辻占売りをして母の薬代、生活費を稼ぐ評判の孝行息子であった。

陸軍記念日の三月十日夕方、人力車で通りかかった乃木は、車夫に少年のこと聞いた。用事を済ませて乃木が少年の長屋を訪ねてみると、ちょうど借金取りが大声で催促している最中。親子は泣きながら、借金の猶予を伸ばしてほしいと懇願する母子を目の当たりにして、代わりに借金を払い帳消しにした。

母子は頭を畳に摺り付けて嬉し泣き礼を述べる母子に乃木は「いやいや礼を云われるに及ばぬ。貴女の病気をお見舞をし、松樹山に名誉の戦死をなされたという貴女の夫の位牌に御線香を上げ、またせがれさんの苦労をなぐさめようために参ったのじゃ。私は乃木希典じゃ」聞いて母子はびっくり、車屋も諸共そこへ両手をついて改めて御挨拶をした。 乃木「いやいや、そう挨拶をされると、わしが困る。今のような者に責められるたびに、夫が居れば、父が居ったならばと嘆かれるじゃろう。その父なり夫なりは、松樹山で乃木の部下に属して戦死をした。殺したのは乃木だと恨まれるじゃろうが、これも御国のためだとあきらめて貰いたい。 これは軽少じゃが御仏前に上げて下さい」仏壇に紙に包んだ二十円の金。別に五円を「よく孝行しなさいよ」と言って子に渡した。母子は、ただ涙のほかはなく、将軍は静かに仏壇に向われ、生ける人に物言う如く松樹山の功績を賞されてされました。


明治24年、乃木希典が陸軍少将の時代、用務で金沢を訪れた折りのことです。希典は金沢で偶然、当時8歳の今越清三郎少年に出会います。今越少年は辻占売りを営みながら一家の生計を支えていました。この姿に感銘を受けた希典は、少年を励まし、金二円を手渡しました。今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績を積み上げました。

乃木の逸話の一つとして一世を風靡した講談「乃木将軍と孝行辻占売り」。美談として脚色された部分もあるが、実際にあった話である。

乃木夫妻の葬儀

九月十八日、乃木夫妻の葬儀が青山葬儀場で行われた。それは空前絶後の国民葬であった。同日、乃木夫妻を見送ろうと集った人々は東京開市以来といわれた。乃木邸より青山葬儀場までの沿道は数十万の人々で立錐の余地なく埋め尽くされた。各界各層、老若男女が集った。葬列には学習院の生徒と廃兵が加わった。乃木夫妻の柩が目前にくると人々は頭を下げ手を合わせた。ことに乃木の後に続く静子夫人の柩には涙を流し嗚咽した。
青山斎場に至る間の両側は人垣を以て埋め、前方の数列は土下座して十重二十重に、群衆は二十万、まことに前代未聞の光景であった。やがて進み来る将軍の霊柩を群衆は厳粛なる気持で、霊柩を見送ったいわれている。

学習院長就任

明治四十年一月、明治天皇は乃木を学習院長に任命

この人事には明治天皇が大きく関与した。山縣有朋は、時の参謀総長・児玉源太郎の急逝を受け、乃木を後継の参謀総長とする人事案を天皇にお願いをした。しかし、天皇はこの人事案に裁可を与えず、皇孫(後の昭和天皇)が学習院に入学することから、その養育を乃木に託すべく、乃木を学習院長に指名した。
(三人の孫が近く学習院に学ぶことになる。その任を託するに乃木が最適と考え、乃木を以て充てることにした)将来の天皇となるべき迪宮(みちのみや)(後の昭和天皇)はじめ皇孫を輔育する学習院長の役目の方が重大であり、その最適任は乃木だと天皇は言ったのであった。

時に五十九歳。迪宮の教育に渾身の努力を尽力する。これに対して迪宮は「院長閣下は」「院長閣下が」と乃木を慕ったいわれている。

また明治天皇は、乃木に対してこの様にも伝えている、「自身の子供を亡くした分、生徒らを自分の子供だと思って育てるように」と述べて院長への就任を命じたといわれる。

乃木は、当時の学習院の雰囲気を変えるため、全寮制を布き、6棟の寄宿舎を建て、学生と寝食を共にして生活の細部にわたって指導に行った。

昭和天皇は晩年、自らの人格形成に最も影響を及ぼした一人として乃木を挙げている。

学習院時代の写真 明治41年10月12日学習院で撮影

御朱印

期間限定の御朱印です。なつまいり御朱印(2019年7月13~8月18日)

その他の御朱印です。

学業と合わせて祈願される方が多いいです。

拝殿

拝殿

ここで、お参りします。

山城ゑびす神社

拝殿となりに山城えびす神社があります。

えびすさま(蛭子皇子)は、生まれた時から耳が不自由だったといわれています。
お参りの際はは、鈴を大きく鳴らし、鯛を優しくなでて願いを込めておまいりしましょう。

商売繫盛・縁結びの神様になります。

また、この神社はしゃれており鯛に「幸せに成り」とかいております。

願いを込めて鯛をやさしくなでましょう

拝殿右側には「全てに勝ちま栗」と書かれた棟があります。

内苑には乃木将軍の三絶をいわれた詩歌石碑・和み地蔵がり、お百度参りでも有名です。

お百度参り

お百度参りは、一日で百回お参りすることのようにいわれていますが、本来は百日間、毎日お参りして、祈願するものです。
乃木神社のお百度参りは、大正期に始まり、御本殿一周りを一回として、これを百回重ねることが習わしとなっています。

  • 一日で百回廻って祈願するのもよし。
  • 百日間かけて毎日祈願するのもよし。
  • 数日に分けて、一日に数回廻り、合わせて百回祈願するのもよし。
  • 百回を一節として繰り返し祈願するのもよし。と されています。LIST3

金州城下の作

明治三十七年六月七日

  • 山川草木轉荒涼
  • 十里風腥新戦場
  • 征馬不前人不語
  • 金州城外立斜陽

石林子「石林子は乃木希典の雅号です。」


歌意 山も川もことごとくすべてが荒れ果ててしまっている。十里四方に血生臭い風が吹く。ああ凄まじい戦場だったのだ。戦いに疲れたのか馬も進もうとせず、将兵もまた話もしない。金州城の町はずれで、今、自分は夕日を受けて、ただただ立ち尽くしているばかりである。

鑑賞 乃木三絶(金州城、爾霊山、凱旋)と言われる希典の代表三詩のなかでも傑作中の傑作です。南山の戦跡(長男、勝典が戦死した地)を弔い山上の戦死者の墓標に向けて弔辞を供えた後に読んだ詩です。
この詩は乃木希典の人となりの一端を示す姿そのものであり、また唐の詩人をも凌ぐ大詩人であったといえます。

和み地蔵

明治

かわいいですね

爾霊山

明治三十七年十二月十一日

  • 爾霊山嶮豈難攀
  • 男子功名期克艱
  • 鐵血覆山山形形改
  • 萬人齊仰爾霊山
  • 希典

歌意 二〇三高地が如何に険しくとも、よじ登れないはずはない。男子たるもの名を立てるには、如何なる困難にも打ち克つ覚悟をもたなければならない。その決意で地形がかわるほどの激戦の後、敵陣を制圧した。一方で多くの命が失われてしまった。今静かに仰ぎ祈るのは、まさしく爾(汝)の霊の山

鑑賞 明治、大正、昭和前期の日本人の多くにしられていたあまりにも有名な詩である。
「二〇三高地の攻防は日露戦争の勝敗を決する戦いである。司令官に任じられたからには、それを達成しなければならない。そんな決意で臨んだ戦いも、多くの尊い命を失ってしまった。誰もがこの山を見て、あなた方の御霊が眠る山として頭を下げるであろう」と静かにこの詩を詠んでいます。

凱旋

明治三十九年一月十四日

  • 皇師百萬征強虜
  • 野戦攻城屍作山
  • 愧ず我何顔看父老
  • 凱歌今日幾人還
  • 希典

歌意 多くの皇軍の兵士を強敵の征伐に向かわせ、山野での戦闘で死体が山のようになる惨状になった。一体どのような顔で戦死させた兵士の親たちに会うのか、合わす顔がない。勝利を祝う歓声パレードが響く今日、一体どれほどの兵士がかえってきただろうか。

鑑賞 明治三十八年秋、日露両国の講和条約の成立を聞き、凱旋帰国の日を思うてその心境をうたったものです。
立派な多くの兵士が戦場に送りだされ、凄まじい戦闘となり、死体が山のようになる惨状になった。今日は凱旋と云うことで、人々は沸き返っているが、あの将兵達の一人一人の親達に、どう言って詫びたらよいのか。自責につめられている人間乃木希典の心境が痛いほど伝わって来ます。

その他

乃木夫婦像があります。

乃木将軍長府木邸(復元)

乃木大将が少年時代を過ごした住家(復元)

乃木家の家庭訓

記念館(改修工事中)

旅順行囲戦の資料があります。(改修工事中)

宝物館

時間9:00~16:00

大人 100円

子供  50円

乃木大将御在世中の直筆の書簡類を始め、乃木夫妻の生活ぶりを伺わせる質素な生活調度品等を展示

乃木夫婦の人形

乃木家の資料などが展示されています。

軍艦吾妻の主錨

日露戦争 日本海戦に於いて活躍した軍艦吾妻の主錨です。

乃木神社の所在地

京都府京都市伏見区桃山町板倉周防32-2
明治御陵 東御陵の麓に乃木神社があります。

    〒612-8028

    京都市伏見区桃山町板倉周防32-2

    乃木神社

    乃木神社への行き方

  • JR桃山駅から徒歩約10分
  • 近鉄桃山御陵前駅から徒歩約18分
  • 京阪伏見桃山駅から徒歩約19分
  • ※無料駐車場あり
  • 近くに明治天皇の墓、桃山御陵がありますので、そちらも時間があればよって頂ければと思います。

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