羅城門と平安京の歴史
羅城門と平安京の歴史について記載、また、平安京の大きさや羅城門の建てられていた場所、羅城門の大きさなどを紹介!
羅城門の歴史と平安京
目次
1.平安京の誕生
794年、桓武天皇は、長岡京から現在の京都の地に都を遷し、平安京と命名した。
平安京は東西に約4.5km、南北に約5.2kmの大きさで京都盆地の中央に位置し現在の京都市の市街地と重なっている。都は条坊制により大路・小路と呼ばれる道路が碁盤の目のように区画され現在の街並み通りに名残をとどめている、北端の中央には当時の政治の中心地であった平安宮がおかれた。
2.羅城門
羅城門は平安京に入る正門(表玄関)として、京(みやこ)の南端中央に建てられた。
基壇(石や土の壇)の上に羅城門建て、羅城門を抜けると、道幅約84mの朱雀大路が広がり、平安宮の正門、朱雀門まで続き、その長さは3.8km先になり標高差約20mまでになり、柳の並木と築地塀が延々と続いていたといわれています。羅城の読み方は「宇治大納言物語」などによると、平安時代には「らしょう」や「らせい」と呼んだようでう。中世には謡曲「羅生門」によって「羅生門・らしょうもん」が一般化し、芥川龍之介の小説は羅生門(らしょうもん)と呼んでいました。
3.羅城門の神話・伝説・民話
今昔物語集 巻第29第18話では、盗人が、日暮後の屋根に登ったところ、連子窓越しにほのかな灯りが見え、白髪の老女が、若い女性の遺体の髪を抜き取っていた。鬼ではないかと怖かったが、刀で脅すと、「女主人がなくなったが、後見もおらず、御髪が余りにも長いので鬘(かつら)にしようと抜いていた」と答えた。盗人は着衣と髪を奪って逃げ去った。葬送(そうそう)できない時に羅城門の上に遺体を置いていたということである。
他にも、東寺にある「兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)(国宝)が、羅城門の上階に安置されていたという話「都名所図会」などがあります。
羅城門の二階には怪しいものが住んでいたという、伝説も残っています。
4.羅城門の大きさ
羅生門 1/10復元模型
高さ約23m(約25m石壇含む)
幅 約36m(約47m石壇含む)
側面 約 10m(21m石壇)
5.羅城門の特徴
木造建築の二重瓦屋根造、木部は丹朱塗り、壁は白土塗り、棟の両端は鴟尾が載せられていました。また、この門が京(みやこ)の内と外とを分ける境界の役割を果たしていました。
羅城門 980年の暴風雨で倒壊
平安京の正門として威容を誇っていましたが、構造上、風に弱く倒壊を重ねて980年の暴風雨で倒壊して以降、再構築されることはありませんでした。
6.右京の衰退
平安京は都市の広さが広すぎ住民の生活に合わなくなり、そして次第に右京が都市として衰退していきます。
10世紀末に慶滋保胤(よししげのやすたね)が著した「池亭記」には「西京(右京)は次第に人家が少なくなり、まるで無人の街となり、人は去り家は新築されることはない。移住先のあてもなく、貧しい人だけが住み続ける」と記されています。いっぽう左京は繁栄します。「池亭記」に「東京(左京)の四条より北には人家が密集し、隣に火災が起きれば類焼をまぬがれず、盗賊が入れば流れ矢が飛んでくるほどだと」記されています。
平安京では、土地は北東から南西にかけて低くなり、右京の西南部は湿地帯であったと考えれれています。土地の特性を生かした、野菜作りなどが盛んに行われるようになるのは中世以降のことですが、平安京ではこのことが都市の発展の不均衡をもたらしたようです。そして平安京以後の京都は現在に至るまで平安京左京域を中心に発展することになります。
※左京域の発展により室町時代の中心地は左京区となっていった。
平安遷都1200年を記念して羅城門 1/10復元模型
京都府建築工業組合が伝統技術の継承を願って「羅城門 1/10復元模型」を制作
かつて、京(みやこ)の表玄関であった平安京のシンボル羅城門を現在、京都の玄関口である京都駅に展示されています。